Sekai In Futon
暖房の効いた教室に、人の話し声とチョークで黒板に字を書く音が響く。それをBGMに俺はノートを見つめていた。
次の戦術はどうする。後方支援に回るか、前線に立つか。俺としては前線に出たいところだけど。難点は言うことを聞かないあの問題児をどのように動かすか、だ。最近は指示を聞いてくれるようになったものの、思い通りとは言い難い。彼の動き次第で俺の判断も変わるから困ったものだ。あの人は実際の戦場を把握してから状況判断をする人間だから、動きに規則性はないに等しい。どうしたものか。いっそもう全て投げ出してみるか。いや、以前より信頼しているもののそれは流石にリスキーだな。
「えー、それで暁というのはー。」
やけに間延びした話し方をする国語教師の言葉に、今まで全く別のことを考えていた思考をやっと傾ける。タイミングが良いのか悪いのか。最近漸くまともに会話ができるようになった一つ上の先輩の苗字が聞こえた。
俺の態度も悪かったのだろうが、何か言えば皮肉で返す。女遊びが激しい。指示をきかない。授業には全く出ないサボり魔。わざわざ俺が探して引っ張り出してこなきゃいけない。だから、やけに気になる、というか反りが合わない相手。だった。
いつだったか、黒猫に俺の名前をつけていることが本人である俺にバレてからというもの、少しずつ交流が生まれるようになった。煽らずに普通に喋れるのか、と感心したことを覚えている。
言葉を交わす度徐々に変わっていく先輩の像に、一体彼は何なのだろうと思うことが増えていく。まるで柔らかい殻を1枚ずつ剥がしていく感覚。他人を拒んでいるように感じる先輩が、ちょっとずつ俺を受け入れてくれている。そんな感覚を何故か嬉しく思ってしまっている。今までこんなことなかったのに。
「夜明けくらいの、時間帯をねー、えー、指す言葉でー。」
夜明けか、そういえばあの先輩──時雨先輩の髪色は夜明けの空のようだと感じた事がある。少しだけ空の色が入ったような、触れたら溶けて消えそうな色。俺は存外その髪色が嫌いではなかった。先輩の態度は嫌いだったが。
数日前に言われた、「須桜ちゃんって髪綺麗だよね。」という言葉をふっと思い出した。アンタも綺麗じゃないですか、なんて口に出したくなくて素っ気ない返事をしてしまったけれど。顔が良い先輩のことだ。きっと数多の人間からそんなことは何度も言われているだろうから、俺がわざわざ伝える必要も無い。
「黎明とか、曙とか、えー、東雲とかね、そういうのと同じ意味があるからー。」
黒板に書かれる文字をぼんやりと見ながら先輩のことを思う。あの人、授業出席しないくせにテストの点数はいいらしいんだよな。なんて思っていると教師の言葉が引っかかった。
以前俺の元に依頼として送られてきた資料の写真に写った青年の顔が浮かび上がる。先輩が「気分じゃない」とかふざけたことをぬかすから依頼は断ったけれど。その後のことは詳しく知らない。ただ別の人に頼んだが逆に殺された、と風の噂で聞いた。頭を一発撃ち抜かれていたらしい。標的の使用武器は日本刀だった。向こうにも優秀なスナイパーがいるんだろう。
名前は確か……東雲慶一、だったはず。黒軍に従属する名家、東雲家の優秀な跡継ぎ。上に双子の兄と姉がいたが兄は死亡。そんなことを書いていた気がする。あの夜明けの空のような髪色や特徴的なくせ毛が立っている髪型が、先輩と何となく似ていて少しだけひっかかっていたのだ。
他にも引っかかるところはいくつかあった。先輩はピアスを2つつけている。先輩の目の色と紫の2色。その紫が東雲慶一の瞳とひどく似ていた。三人兄弟。姉の目の色はわからないけれど、双子なら同じでもおかしくない。なんてこじつけだろうか。
なんだかんだと文句を言ってしまうが、先輩はきちんと任務はこなす人だ。出会った当初のお互いピリついていたときだって、依頼は全て引き受けてくれた。完璧に暗殺をこなすし、悔しいが俺より最善の選択をして帰ってくるときだってある。そんな彼が理由もなしに依頼を断るのか?
先輩の言動。形の良い耳についている2色のピアス。暁と東雲。……まさかな。もし、先輩が東雲慶一の兄だったとしても、白にくる利点が見つからない。そのまま黒にいれば安定していただろうに。女遊びが激しすぎて飛ばされたか。
そう思ったところで先輩が常にポケットに手を突っ込んでいることを思い出した。あの人は手を出したがらない。一時期「手がないんじゃないか」みたいな噂が立っていたらしいが、そんなことはなかった。両手が猫を優しく撫でている所を俺はちゃんと見たから、それは確かだった。けれど、色々と観察していると妙な違和感がある。右手の動きにほんの少しのラグがあるような、注視しなければ分からないようなズレ。ただし、それは戦場だと確実に生死に関わるものだった。
もしかして、先輩は右腕を大怪我したことがある?その怪我が原因で家にいられなくなった、とか。けれど怪我したとしても、それくらいじゃ白に来る理由にはならないだろう。現に先輩は今戦えている。普通の家ならば追い出されるようなことは何も無いはず。一般的に考えて、負傷した子供を見捨てるようなまねはしないだろう。俺は分からないけれど、家族とはそういうものだと学んだ。
……いや、そもそも、そんな事を考えて何になる。知ってどうしたいんだ。俺が生きていくことに何も関係ない。所詮俺は赤軍からのスパイで、ここで出会った人間とも敵対する身だ。気になるなら直接聞けばいい。その後の関係がどうなろうと、殺せば人間関係に意味なんてなくなる。先輩だって、死んでしまえばそれだけ。そう思うはずなのに、聞くことを拒む自分がいた。
今の状態で踏み込んだこと聞いていいのか、なんて。先輩に拒否されてしまうことが怖い。先輩と話す時間を失いたくない。もっと先輩の事を知りたい。薄らとそんなことを思ってしまっている。……もしかして、先輩との関係を壊したくないと思ってる?この俺が?そんなことあるはずがない。だって──
「須桜ちゃ〜ん、俺呼んでるんだけど〜。」
「ッ!?先輩っ、なんで」
「え〜?何となく須桜ちゃんとご飯食べようと思って〜。」
にこっと音が出そうな笑顔を向けた先輩は、呑気にお弁当は?なんて言っている。何を考えているんだこの人は。何してるんですかここ1年の教室ですよ、と言いたかったが、数ヶ月前俺も似たような行動を取ったことを思い出し口を噤んだ。というか、授業終わってたのか……。
人の声が聞こえなくなるくらい考え事に耽るなんて、そうそうないというのに。目の前にいる人間の事を考えこんでいたら時間を忘れていました、とか。まるで恋する乙女だ。恋も乙女も俺とは縁遠いものだけれど。
「俺、弁当とか持ってきてないです。」
「お昼ご飯どうするの?」
先輩の質問には返さず、カバンを漁り袋に入った栄養調整食品を机に置く。買い溜めしているものを一掴みして袋に詰めてきたものだ。移動してても食べられるし、便利だよなと俺は思っている。
本家に帰るとちゃんとしたものを食べてくださいと従者に怒られるけど。言ってくるのは弟の従者の方で、俺の従者は特に何も言ってこない。
「……何これ。」
「俺の昼食ですが。」
呆気にとられたような顔をする先輩が新鮮で面白い、と思ったけれど何も言わない。意外と表情が豊かな先輩を見ていると少しだけ楽しくなるなんて、認めたくなかった。……いや、もう楽しいという感情を見てしまっている。その時点で自覚している。だけど、俺だけが先輩に翻弄されているようで悔しいから、これはほんの些細な反抗なのだ。そう、確かに俺はこの日々を心地いいと感じていた。
後日、もうちょっとマシなの食べなよ……と言った先輩が弁当を作ってもってくるのはまた別の話。