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 兄貴は泣かない人だった。厳格な祖父にどれだけ怒られても、どんな理不尽なことをされても、どんな深い傷を負っても泣くことはなかった。兄貴の人生を変えたあの時だって、その頬に涙が流れていることはなかった。腕から大量の血を流しても、止血の為に自分の腕を焼いても、心配させないように青い顔をしながら笑っていた。
 俺が見舞いに行ったときだって、「俺の手、前みたいに動かないんだってさ。ま、これくらいハンデあったほうが慶一も俺に追いつきやすくなるよなぁ」なんて笑っていた。その笑顔はいつも通りだった。
 退院してから兄貴は実家に戻って休養していたから殆ど会うことはなかったけれど、きっとその間だって泣くことはなかったのだろう。たまに家に戻ったときにはリハビリに励んでいる姿をよく見かけた。話しかけたかったけれど、親戚と話している途中だったからそれはできなかった。
 兄貴はいつも笑っている、強い人だった。明るくて、優しくて、努力家で、俺の憧れだった。実の兄でありながら、信仰しているかのような、まるで神のような存在だと勘違いしていた。だから、また、いつも通りの日々が帰ってくるものだと、そんな事を思ってしまっていたのだ。
「雨音がいなくなった」
 そう姉貴に言われたとき、脳が理解を拒んだ。言葉を言葉として認識することができなかった。あの兄貴が、居なくなるはずがない。だって、だって兄貴はいつも俺達の事を考えてくれて、ずっと傍にいてくれて見守ってくれている太陽みたいな人で。そんなあり得ないこと。そう思ったけれど、兄貴の部屋は空っぽで、家中どこを探したっていなかった。ただそこには二つあった筈のナイフが一本置いてあるだけだった。
 親族からの期待が一心に集う。「あの消えた馬鹿のようになってくれるな」皆そう言っているようだった。兄貴が馬鹿な訳がない。俺は知っている。姉貴が殺されそうになったのを庇って大怪我を負ったことを。兄貴は最後まで姉貴を庇い続ける選択をしていたことを。
 姉貴が戦場に立つことをよく思ってない輩がいることを俺と兄貴は知っていた。そんな奴らが、跡取り息子に傷を負わせたことを姉貴に糾弾しないように、「俺が悪い」と言い続けていたことを、知っている。俺も二人と同じように、兄貴と姉貴のことが大事だった。けれど、どちらかを取らなければならない。兄貴なら大丈夫だろう、とたかをくくっていた。強い人だから、と俺は兄貴をそう思い込んでいた。
 数日後、兄貴の葬式が俺達に何も言わず行われた。朝突然連れてこられて「今から雨音様の葬式を行います」とそれだけを告げられた。いつも「あの家のようになってはいけない」とずっとずっと言っていた名家を沢山呼んで開かれていた葬式は、壮大に執り行われた。静かなお祭りの様だった。誰一人として悲しんでいない葬式。「なんで」なんて子供みたいな疑問で頭がいっぱいだった。兄貴は死んでない。死んでるはずがない。目の前に置かれた空っぽの棺桶。遺影はかかっていなかった。気丈な姉貴は涙を流していた。周りの人間は慰めていた。けれど俺にはわかる。姉貴の涙は悲しみからくるものなんかじゃない。悔しさのせいだ。「殺してやりたい」と絞り出すような声で言ったのをすぐ隣で聞いた。
 兄貴の葬式やその関係で家に戻っている間、歯車が噛み合わないような感覚が俺を襲っていた。そういえば、この前淳と家の話をしたとき、「ケイの家ってちょっと怖いよな」なんて事を言っていた。今ならその言葉の意味が少しだけわかるような気がした。うすら寒いような、変に澱んだ空気が家中に蔓延しているような、そんな感覚。俺は早く淳に会いたかった。いつもの日常に戻って、この空気を体の中から出したいと思った。内部から浸食されて腐っていきそうだった。もう、手遅れなのかもしれないけれど。
 夜、飲み物を取ろうと一階に降りようとしたとき叔父と祖父の会話が聞こえた。聴き耳を立てるのは行儀が悪いとはわかっている。それでも、この違和感をどうにかしたくて息をひそめて話を聞いた。
「結局消えたな。」
「でも面倒な奴がいなくなってスッキリした。」
「あの恥知らず、あそこで死んでいればよかったのに。」
「順調にいっていたのが台無しだ。」
そこまで聞いて俺は静かに二階にあがり、トイレに駆け込んだ。気分が悪い。消えるのがわかっていたのか。俺達の知らないところで一体何があったんだ。怪我をした兄貴は面倒な存在だったのか。家族を守った兄貴は恥知らずなのか。何が順調だったんだ。どうしようもない悪意にあてられて吐きそうだった。違和感は強くなるだけだった。
 少し愚痴を吐いたとき、「そんなこと言うな!」と何人にもそう怒鳴られた。今までこんなことはなかったのだ。あったとしてもこんなに何人からも詰られなかった。何故急に、と思った。けれど「もしかして俺が跡継ぎになったからか」、といとも簡単に解が出た。
 それと同時に俺は理解した。理解してしまった。兄貴は泣かなかったんじゃなく、泣けなかったのだ。たぶん、これは兄貴が小さな子供だったとしても周りは同じ反応を示していたのだろう。長男というだけで兄貴は泣き言を言うことも涙を流すことも許されていなかった。感情を何十人もの大人に抑えつけられて生きてきたんだ。幼い頃から染み付いた強迫が兄貴を蝕んでいた。
 こんなことがあってたまるものか。アイツらは俺達の事を子供と思っていない。本当に、跡を継ぐ道具としか見ていないじゃないか。祖父母の、あの優しい笑顔は嘘で、空っぽで、偽物で。兄貴のあの、俺の大好きな笑顔は、東雲雨音は、東雲家に作られたもので。そんなこと信じたくなかった。
 あぁ、そういえば、「俺が笑ってないと皆不安になるからさ。」なんて、いつかそう言っていたではないか。何を言ってるんだか、とただただ呆れていた。けれど、そんな兄貴に憧れてしまっていた。その意識が兄貴を縛る呪縛そのものだと全く気付くことができなかった。
 生まれた時から周りに抑えつけられていた兄貴に、俺も、姉貴も、兄貴自身さえ壊れていることに気づいていなかった。それが普通である、と思い込まされていた。何も見ていなかった馬鹿は誰だ。俺か、周りの人間か、それとも、……家の人間全員か。古い古い昔のしきたりや権力にずっと縋り付いている祖父母も、他の親族も、兄貴のことを放っておいた両親もイヤになった。
 この家は歪だ。死骸に群がる蝿のように、権力に群がる親族が、厭らしく汚らわしく感じた。兄貴がいなくなってからやけに関わってくる祖父母の思考が見え見えで、嫌いになった。俺が何も気づいていないと思っている祖父は「不良品は捨てられるものだろう」といつもの笑顔で言った。怖くて、気持ち悪くて、全部無茶苦茶に壊したくなった。全部なかったことにしたい。この憎悪と恐怖はきっとずっと付きまとう。抱えきれないようなこの感情を、俺はずっと背負って生きていかなきゃいけない。
 あの、壊れた兄貴をこの家に戻したことは、とんでもなく恐ろしいことだったのではないか。俺が庇うべき相手は一体誰だったのか。俺の選択は間違ってたのか。俺は一体何を見てきたのか。結局、俺も、周りと一緒で、長男としての兄貴しか見えてなかったんじゃないのか。長男の幻想を押し付けていたんじゃないのか。そのせいで、兄貴は。「憧れ」は「理解」から最も遠い感情だという誰かの言葉が頭をよぎった。
 頭がおかしくなりそうだ。これからどうなるのかわからない。こんな気持ち悪い家に縛られていたくない。そうは言っても俺に東雲家の跡継ぎから逃れる術はなく、逃れられたとしてもこんな家に姉貴を1人置いておくわけにもいかなかった。姉貴だけじゃない、淳にだって、隊全員に迷惑がかかってしまう。嫌だ。気持ち悪い。頭が痛い。苦しい。思考を止めたい。
あぁ、後悔したって遅い。兄貴は神様なんかじゃなくて、ただの人だったのに。

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