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 俺の、可愛い後輩からの視線に熱が篭っている事を知っていた。触れる指がやけに優しい事もわかっていた。その声が愛に満ちている事もわかっていた。
 一年前はこうじゃなかった筈だ。ただの後輩と先輩だった。それも、少し仲が悪かったくらい。それからちょっとずつ距離が縮まって、今じゃ誰にも教えていなかった俺の部屋に呼ぶくらい仲が良くなった。家に泊めるし、彼の好きな料理をきいて、それを作ったりした。
 穏やかな木陰の下で、彼は隠し事を全部教えてくれた。俺の隠し事も昔話も全部話した。彼は苦しそうな顔をしていた。キミがそんな顔をすることはないのに、と思ったのを覚えている。こんな俺の為に怒ってくれたのを覚えている。
 俺の後輩は、須桜神楽は、優しい。俺はその優しさを与えてもらえる程の人間じゃない。家に琴音と慶一を残して飛び出してきたというのに。皆の期待を裏切ったのに。ただの不良品なのに。暖かい陽だまりにあたることを誰が許そうか。
 優しさが与えられる度に羽毛に包まれるような幸福と、胸を締めつけるような心苦しさ、二つの相反する感情が俺を支配した。
 後輩の目に熱が篭るようになってから、少しずつ部屋に呼ばなくなった。部屋に彼のお日様のような匂いが残るから。やけに部屋が広く感じるから。いつもより強く寂しさを覚えてしまうから。と言っても、須桜ちゃんは俺の家を知っているから、俺は一年前のように女の子の部屋を転々とした。
 彼と距離をおいた。このままいると、彼の優しさに甘えてしまいそうで。俺は幸せになっちゃいけないから。少し悲しそうな顔をする彼に罪悪感を覚えた。ごめん、と呟いた言葉は誰にも捕えられることなく空に消えた。

 そんな、いつも通りじゃないようなある日。放課後、そろそろ学校から退散するか。そう思い周りにいる猫達の頭を一通り撫で、別れを告げた。立ち上がろうとした時、黒猫がニャアと鳴いて俺の腕に尻尾を絡めた。コイツがそんなことをするのは珍しいな。そんなことを考えながら「ごめんね」と謝りつつ俺の体から離した。次こそ、と立ち上がり見た視線の先に。今一番現れてほしくない人がいた。どんなタイミングだよ、と思わず俺は脳内でツッコミをいれる。だって、あの黒猫の名前は。
 いつも通り呼び止められて、いつも通りに嘘をついてその場から離れようとした。振り返ったその瞬間、腕をつかまれた。運が悪くも、ここは人気の少ない校舎裏で。だから俺はよくここに来るんだけど。今日はその選択を後悔した。やっぱり俺って運ないのかな。
「先輩。」
 耳触りの良い彼の声が俺の耳に入ってくる。振り向きたい。けど、振り向きたくない。だって、振り向いてしまえばもう戻れないような気がしたから。俺の直感は、案外あたってしまうのだ。
「こっち向いてください。」
「……やだ。」
「先輩。」
「やだってば。」
「時雨先輩、お願い。」
 俺は、彼に弱い。自覚はあるし、残念なことに彼もそれを知っていた。恐る恐る振り返ると、彼の視線が俺を射抜いた。あぁ、逃げてしまいたい。俺は彼の優しさから逃げたい。せめて視線だけでも、とふっと地面に視線を落とした。
 そんな俺のことは露知らず、彼は無遠慮に言葉を紡ぐ。やめて、言わないで。その先をきいてしまえば、俺は幸せになってしまうから。口を開いてしまえば別の言葉が出てしまいそうで、俺は口を噤んでいた。
「俺は、時雨先輩の事を大切に想ってます。」
「……。」
 それは嫌という程分かっている。だから俺はこんなにも苦しいんだ。それに、俺も、俺だって、キミのこと大切に想ってるよ。そう言いそうになる気持ちをぐっと抑えて、2人の影が伸びる地面を見ていた。俺がどんな胸中をしているのか知らないまま、彼はどんどんと言葉を、感情を投げかけてきた。
「守りたいと思いました。ずっと傍にいたい。強がりなアンタを、とびっきり甘やかしたいんです。幸せにしたいんです。それに、……俺はアンタの泣き顔が見たい。」
「……、でも、俺」
「ね、きいて。先輩の、東雲雨音の選択は、何も間違っちゃいないんです。泣いたっていい。怒ったっていい。自分勝手に生きていい。十分頑張ったんだから、もう幸せになっていいんですよ。」
 いつかの俺が欲しがった言葉は、今目の前で放たれた。皮肉なことに、言った相手は黒軍の人でも、家族でもない人で。
 それでも、俺が、東雲雨音が許された気がした。俺を縛る呪いが消えていくような感覚がした。自分自身で縛っていた鎖は、神楽の言葉でいとも簡単に消えた。もしかしたら、神楽だから、というのもあるかもしれないけど。
 押さえつけていた幼い子供のような欲望が顔を出す。ずっとずっと胸の中で燻っていたもの。家から見捨てられた時からずっとある確かな思い。それはそのまま言葉となってあらわれた。
「もう独りになりたくないよ。」
 声が震えて視界がぼやける。見えちゃいないけど、情けない顔をしているのが自分でもわかる。年上なのに、恥ずかしいな。そんな俺を、神楽は優しく笑って見つめているような気がした。
「例え、世界が終わったとしても、俺はアンタの手を離さないから。」
 ほんとう?と顔を上げて聴くと、彼は俺の好きな穏やかな笑みを浮かべたままゆっくり頷いた。
 その瞬間、蓋をしていた感情が胸の中で溢れ出た。困ったように笑う顔が好き。蜂蜜色の瞳が好き。俺に触れる熱が好き。甘いものが好きなところが好き。綺麗な顔をしているのによく食べるところが好き。ほんの少し自信家なところが好き。案外だらしないところが好き。暖かいところが好き。少し寒がりなところが好き。どれも消えることなく胸に溜まっていっぱいになる。幸せにしたい。俺も神楽といたい。笑顔を、いや、それだけじゃない。少しずつ表情豊かになる神楽。その色んな表情をすぐ隣で見ていたいと、俺はずっと思っていた。神楽の傍が心地よかった。それから目を逸らして、気づかないフリをしていた。
 琴音にも、慶一にも、こんな感情は抱かなかったから。家族以外を差し置いて、こんなにも強い感情を抱いてはいけないと思っていたから。家じゃない、他のものの為に生きちゃいけないと思っていたから。
 神楽が近づいて、俺との距離をゼロにした。温かい。それはいつも夜に感じていた人の温かさより少し冷たいものだったけど、とびきり優しくて穏やかで温かくて。俺はぎゅっと心臓を掴まれたように苦しくなった。あぁ、こんなに幸せでいいのかな。
「……俺は愛なんてものわかっちゃいないけど。でも、これが、愛じゃなかったら、一体何が愛だって言うんでしょうね。」
 そうだね、と言おうとした言葉は口の中で溶けて消えた。情けない声が漏れてしまいそうで。
 今までこの感情に理由をつけて目を逸らし続けていた。でも大層な理由なんて全然なくて、ただ怖いだけだった。俺は須桜神楽が大好きで、愛している。そんな彼を失うことに怯えていた。それだけ。本当に単純なことだった。
 けれど、神楽は俺の手を離さないと言ってくれた。俺はそれを信じたいと思った。もう一度、誰かを信じてみたい。どうしても昔のことが頭をよぎる。怖くて仕方ないけど、これはきっと、俺にとって大切な一歩。神楽の背中に手を回して抱きしめた。上手く力を入れられない右手は、いつもより言うことを聞いてくれたような気がした。
「これから言うこと、聞いてくれますか?」
「……うん。」
「ずっと、ずっと隣にいます。」
 神楽はとびきり優しい声音で、とびきりの愛を俺に伝えた。俺も、と応えた声は掠れていた。頬が濡れて、爽やかな風が少し冷たく感じた。長男でも、東雲家の1人でもない、ただの東雲雨音を愛してくれている。それが俺は堪らなく嬉しかった。幸せだった。ずっと、手を離さないでいて。俺のことを見ていて。そんなお願いに、神楽は穏やかに相槌をうった。溢れ出る雫が神楽の制服に染みる。まるで小さい子供のように泣きじゃくる俺を、神楽はずっと抱きしめてくれていた。

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