Sekai In Futon
「……。」
コツン、と盤上に駒を置く音が暗く白い部屋に響く。白の騎士はとうに盤上から失われた。
「チェックメイト。」
冠の欠けた白い王の前に黒の騎士を置く。今回は黒が勝利した。冷めた瞳で盤上を見下ろす。歓喜も何も無い。勝者の目の前に人はいない。この空虚な部屋には、人は海梨幸瑶ただ一人しかいなかった。
海梨幸瑶は司令官だった。類まれなる頭脳を持ち、捨てられた平民から自分の知能のみで最高司令官にまで登りつめた、勉学に秀でた人物であった。勿論そこには努力はあった。親を失い村に捨てられた彼を拾ってくれた総帥に泥を塗りたくない、せめて力になりたい、その一心で彼は努力してきた。ただ、彼に白軍への思い入れはない。彼を優しく見守ってくれていた総帥がいなければ、司令官という地位も白軍という場所も捨て去っていた。こんな、こんなにくだらないところなんて。
「司令官、貴方に力などないのですから、部屋の外へ出歩かないでください。」
「……。」
「私達は貴方の頭脳だけを頼りにしているのです。おわかりでしょうか。」
「わかってるよ。」
尖った視線と言葉が幸瑶を刺す。
ボクに人権なんてないってか。全く面白いところだね、ここは。あぁ、早くあの穏やかな、ボクのお城へ行きたい。大きな木しかないけれど、ボクは、早くただの人に戻りたい。
目の前にいる輝かしい金髪を持つ偉いお方の文句を聞き流し業務を片付ける。ため息を軽くつけば彼の目が鋭く幸瑶を貫いた。ダンッと勢いよく机が叩かれ、コップの中のお茶が揺れる。幸瑶はそれを、ただひたすらに冷めた目で見た。
「あまり調子に乗るなよ。お前の価値は脳にしかない。」
「……。」
ボクの中ではキミの価値なんてそこらに転がってる石くらいだけどね。目の前の書類に判子を押しながら、自分の中で返事をする。こんなこと言ったときには殴られかねない。この執務室に見張りなんていない上に、人が滅多にこない所に置いてあるのだ。どんなことだって簡単に出来てしまうだろう。痛覚が少し鈍いとはいえ痛いのは勘弁だ。
「ふん……。全く、何故こんな奴が司令官になったのか理解し難い。とにかく、お前はこの部屋から動くな。次の戦闘の司令も俺達を通じて出す。」
「よろしく。」
舌打ちをして帰っていった彼をチラリと見て、幸瑶は引き出しを開けその中に貯めているチョコレートを一つ口に入れた。甘い味が口の中に広がる。どれだけボクをここに縛り付けたいんだか。司令官である幸瑶を見た生徒は極少数しかいない。表に立たせないのはおそらく、暗殺者やスパイに身を知られず殺されないようにであろう。確かに戦場じゃ役に立たないけれど、多少の護身術くらいは身につけているつもりだ。それから、名家としてのプライドもあるのだろう。多分こっちが大部分を占める。面倒くさい。
机に広げた書類を纏めてさっき開けた引き出しとは違う引き出しに入れる。手が手触りの良い白い箱に触れた。あぁ、こんなものもあったな、と思い奥へ追いやる。使うときは多分来ないだろうからね。ある程度の仕事はしたし、休憩だ。さぁ、外へ行こう。忠告など知ったことではない。死んだ時は、まあしょうがない。
サクサクと草を踏み分け丘を歩く。ずっと白い部屋に囚われていたから、身近に色があるのが嬉しく思う。空が高い。風が体を撫でるのを全身で感じる。目的地は、大きい木の下。そこで寝転んでお昼寝をするのが幸瑶の生きがいだった。友人がいれば気軽に喋って息抜きもできようが、なんせそういう存在がいない。あるはずのない噂を囁かれ、人は幸瑶の側から離れていった。隔離もされては文句を言う名の知らない駒しか幸瑶の前に立つ人がいない。手元に残ったのは地位だけだ。空虚に襲われるなんて、あの場所に相応しくない。もう少し、楽しいことを考えよう。例えば、……例えば?思考をとどめることなく丘を登り木の下の木陰に入り、ゆっくりと腰を下ろした。眼前には黒軍の領土が広がっている。黒軍に入っていれば、人生は変わったのだろうか。別に、今更この人生に希望なんてものを見出したいわけではないけれど。
「今日はどんな夢が見れるかな。」
幸福な夢だといい、そして、そのまま覚めなければいいんだ。まるで死を望むかのように幸瑶は微睡みの中へ落ちていった。
驚いた。いや、この状況は誰だって驚くだろう、多分。起きたら少し近くに人が、それも一応敵対している人間がいたのだ。それになぜ、自分は生きているのか、いやそれは殺されていないからなのだけど、なぜ生かしているのか……。幸せな夢を見ていたのに何も覚えていない。
他の人間が来たら面倒だから、マントでも被せとこう……。ここで争いはしたくないしなぁ。あぁ、でもこの人が起きたら殺されるかもしれない。ボクはそれでもいいんだけど。……。というか、この人大きいな……。マント絶対小さいよ……。
むんむん、と考えをしながら自分の服についているマントを取り外し、黒軍の人間に被せていたら。
「……なに?」
心臓が高鳴る。起きたのか。いや、そんなことより自分のことを何も知らないであろう人が、自分に、話しかけてきた。青い、まるで今日の空のように綺麗な瞳が幸瑶を映した。
「えっ!あ、起きてたの……?」
絞り出すように声を発する。何も、おかしくないだろうか。ボクは、ただの人になれているだろうか。青年は体を起こして少しだけ呆れたように言葉を返した。
「さっき起きた。」
「へぇ~……。もしかしてボクが起こしちゃった?」
「まぁ……。」
「あはは、ごめんね……。」
話し方は何も変じゃないか。緊張する。司令官という立場上、ポーカーフェイスは得意だ。得意だけど。
笑顔はちゃんとできてる!?最近全然笑ってないから、笑顔の作り方なんて忘れちゃったよ!とにかく、状況の説明だ、落ち着け、ボクは白を束ねてきた人間だぞ、大丈夫、大丈夫……。
「ほら、ボク白だからさ、黒軍のキミが寝てたら不審に思われちゃうでしょ?それでボクのマントかけてたら多少はって思って。」
何もおかしくないか?言葉を発する度に疑問が脳内を支配する。人と会話するのはこんなに緊張するものだったのか。青年は怪訝そうな顔を崩すことなく返事をしてくる。
「ふぅん……。」
「まあここ全然人こないんだけどね。ボクがここ見つけてから初めて人と会ったよ。」
「……あのさ、こうやって話してるけど俺がアンタを殺す可能性とか考えねぇの。」
いつだって殺せんだぞ、と目の前の青年は呟いた。幸瑶は赤が薄く色づいた彼の頭を見下ろす。少しだけ沈黙が2人の間に流れた。幸瑶は青年の隣に腰を下ろし、体操座りをした。彼の横顔がよく見える。また少し緊張した。
「ふふふ、ボクだったらこんないい天気で気持ちいいときに殺し合いとかしたくないな。しかもキミ、ここにきたってことは昼寝しにきたんでしょ?戦うより寝たくなるのもわかるよお。そもそも、殺せたならボクが寝てるときにやってるはずだよ。」
「いや、別に俺は天気がどうであれ殺し合いはするけど……。まあ、ここじゃあしたくないな。」
「うんうん、したくないよねぇ。ボクが起きてから殺すなんて悪趣味すぎるしさ。」
それはそれで、死を実感出来て良いのかもしれない、そう思うとなんだか笑えてきて幸瑶はくすくすと笑った。隣にいる綺麗な青年の顔を見つめる。整った、美しい顔立ちをしている。お上品そうだな、いいとこの坊ちゃんかな、そんな事を思いながら言葉を放つ。
「……キミってば、ボクより白軍っぽい見た目してるね。眼帯もかっこいいよ。」
本当は少しだけ、その眼帯の下も見てみたいけれど。似合っているのは事実だ。黒い絹に金色の糸で蝶の刺繍が施されている。おそらく怪我などではなく、その下を隠すためなのだろう。
「よく白っぽいって言われる。あんま気にしてないけど。」
「へぇ。潜入捜査とかしてもあんまり違和感なさそう。いいよねそういうの、面白そうでさ。」
「別にいいもんでもねぇよ。アンタだって黒みたいだぜ。綺麗な黒髪じゃん。」
はにかみながら言われたその言葉は幸瑶の胸を一段と高鳴らせた。見た目を褒めてもらえるなんて、一体いつぶりだろうか。黒髪に赤眼だなんて、村じゃ、ただ虐げられる原因にしかならなかったから。
「嬉しいなぁ。この見た目、あんまり評判よくなくてさぁ。」
「へぇ。こっちくれば歓迎されるかもな。」
「あはは、行ってみたいけど無理だなぁ。」
ぽつりぽつりと、ただ取り留めもなくする会話は楽しかった。相手はそう思っていないかもしれないけど。きっと友人同士とはこういうものなのだろう。来た時には高かった太陽が、もう沈もうとしている。夕日に照らされた青年の髪が煌めいて、ただただ綺麗だった。
「じゃあね。久し振りにこんなに話をしたよ。」
「……俺も、結構楽しかった。」
あぁ、よかった。相手を楽しませることができたのだ。独りよがりな楽しさではなかった。それだけで幸瑶は、幸福に浸ることができた。
「……ねぇ、キミの名前教えて。」
ボクは、キミと友達になりたい。その言葉を隠して名前を問う。太陽を背に、青年と向かい合う。泣きそうな顔を見られるのは少し恥ずかしいから。
「祐喜。アンタは?」
「ん~……。幸とでも呼んでよ。」
「なんだそれ。絶対本名じゃねぇだろ。」
「そうだよ~。ほら、偽名ってかっこいいから、1回やってみたくてっ!」
そう、偽名だ。幸瑶は本当の名前を知られてはいけない。例え向こうが、司令官の名も、姿も知らなくても。無邪気に笑う。笑えているのかわからないけど。
「まあ、呼べたらなんでもいいけど……。」
「祐喜くんって案外大雑把だね。……そろそろ、ほんとに帰る時間だ。ボクはいつでもここにいるからさ、気が向いたら来てよ。」
「別にいいだろ。つーか、いつでもいるとか、暇人かよ。……でもまあ、そのうち昼寝しにくるわ。じゃあな。」
素直でよろしい!と弾んだ声で言うと、手が近づいてきて、デコピンをされた。おでこに衝撃を感じる。嬉しい。また、来てくれるのだ。背を向けて歩き出した祐喜の姿が見えなくなるまでずっと見ていた。まるで愛しいものを見守るかのような慈愛に満ちた目で。
祐喜はかなりの頻度で木陰にやってきた。「流石に雨の日には来なかったんだな」と言われ、雨が降っている日にまで来てくれている祐喜がもう可愛くて可愛くて、頭を撫でくりまわしたりした。ボサボサになった頭は一瞬で元に戻った。何か食べるものがあったほうが、という考えで以前から足繁く通っていたケーキ屋にはより一層通うことになったし、友人ができた、ということでケーキをおまけでつけてくれるという豪勢なお祝いもしてもらったのだ。お前に友人ができるとは思わなかった、と酷いお言葉を頂いたがそれは幸瑶も同じことを思っていたので、「ですよね〜。」と返した。勿論相手は微妙な表情をしていた。どうも自虐ネタはそんなに好きじゃないらしい。
「そういや、お前っていつもここいるけどそっちって訓練とかないの。」
お気に入りらしい苺のケーキを頬張りながら祐喜はこちらを見た。なんと返したものか。本当は司令官なんだけどすごく弱いから真っ白な部屋に軟禁されてて毎回こっそりきてるよ!などとは返せない。
「あ~、っとね、ボク運動出来なくて足引っ張っちゃうんだよね。」
「サボりってやつか。」
「ですね……。まあまあ、適材適所って言葉があるしね、大丈夫。ボクの担当は裏方だからさ。」
嘘は言っていない。運動出来ないのは本当だし、本当に裏の方で司令を出しているから。確かに訓練はサボっている、というかこの地位についてからはないのだが、それを言うと少し勘づかれるかもしれないので否定はしない。まあ昔はサボって本を読んだりしていたが。
「ふぅん。ていうか、なんで白軍にいんの。」
「拾われたからだね。そんだけだよ。」
祐喜は少し驚いたような、それでいて気まずそうな顔をした。拾われた、など人によってはデリケートな部分でもあるからだろう。幸瑶にとっては特に気にすることもないので、何故と聞かれたらすぐに答えるけれど。
「正直軍に拘りなんてないけどさ、拾ってもらったし多少はね、恩とか感じてるわけだよ。」
正確には、拾ってくれて面倒を見てくれた総帥に、だ。司令官になってからは会うことも減ってしまったが、恩は忘れていない。
「そうなのか。まあ、そういうやつも少なくないみたいだしな。」
聞くと祐喜はやはりいいとこの坊ちゃんらしく、黒軍の下へ従く家のようだ。身なりからなんとなくそう思ってたよ、と応えると、まじかと呟いていた。その眼帯とか、キミが思っているよりお高いと思うよ、と心の中で言ってケーキを口に運ぶ。大好きなチョコレートケーキを食べながら、少しだけ自分の話をする。これくらいなら別にいいだろう。
「友達とかもいないし、ついついここにきちゃうんだよねぇ。いないっていうか、あんまり好かれてないっぽくてさ。」
「それ、もっと孤立するやつだろ。何してんだよ。」
ごもっともである。ただ言い訳をするなら、普通の人間と関わることが滅多にないので交流が生まれないのだ、としておきたい。
「ここ居心地良くて……。ボクのこと、気に入らない奴も多くいるし、はやく戦争終わってくれないかなぁ。」
「そいつらと会わなくてすむからか?」
「そうそう、よくわかったね。」
考えを読まれ感心した顔を祐喜に向けると、頭をはたかれた。何気に祐喜は手が出ることが多い。痛くないよう加減してくれているようで痛みはさほど感じないけど。
「えへへ……。でもさ、命が無駄に消費されるより、よっぽどいいと思わない?」
「……まぁ、そりゃな。」
祐喜も同じことを考えていたようで、ほんの僅かに表情が険呑とした。そういう顔もかっこいい、と思う。ただ空気が少し刺すように尖った。なんとなく、チクチクと嫌味を言われているときのような空気だ。
「ふぁあ、たくさん喋った気がする、眠いし寝よ。夏に近づいてきたから部屋が暑くて寝づらいんだよね〜。」
あくびをして空気を壊す。わざとらしかっただろうか?幸瑶には、空気の変え方がわからなかった。おそらく、祐喜は幸瑶のことを呑気な運動音痴と思っているであろうから、なにも変ではなかったと思うけど。
「本当に自由な、お前。」
「ふふふ、ボクはここにいるときだけ一般人に戻るからね、幸せだよ。」
ここにいると、本来あるべき姿に戻れているようなそんな気がしていた。何にも縛られない、そんな自由がここには確かに存在している。
「一緒に昼寝できる友人ができてよかった。」
ぽつりと呟いた言葉に返事はなかった。返事がないのは幸瑶と祐喜が敵同士だから。皮肉なものだと、お互いにわかりあっていた。
コンコンコン、と大きな扉を3回ノックする。間柄、ノックはいらないと言われているけど、一応取り込み中だとまずいのでいつもノックはするようにしていた。
「幸瑶か?入っていいぞ。」
返事がきたので、ギィと扉を引いて部屋の中に入る。高い絨毯の上を歩き、書類が散らばった机の前に立った。
「何の用だ?」
「東雲総帥、私からの提案なのですが。」
今幸瑶の目の前にいる人物は、幸瑶を拾った人間、そして白軍の頂点である総帥、東雲慶一だ。お互いに時間に都合をつけ、話し合いの場を設けたのだ。司令官の業務は、幸瑶の前にいる者達が自分達のプライドからある程度片付けているのでそんな面倒なものは回ってこないが、彼は違う。主に外との取り引きを行っており、これはまだ彼にしかできないことなので忙しそうにしている。
「……。毎回言ってるけど、俺と幸瑶の間柄だろ。そんな改まらなくてもいいぞ。あぁ、そうだ、紅茶はいるか?」
「わかった。あとボクは麦茶がいいな。で、提案なんだけど、戦争を終わらせようと思う。」
慶一はお茶を入れる手を止め、幸瑶を見る。その顔から感情は読めない。言葉の続きを促すかのような素振りをして、再び手を動かしはじめた。
「西洋の文化が一番だ、って白軍の皆はいうけど、ボクは昔の文化も大切だと思う。その、日本独自の文化をもっと外国に出していけば、この国は発展していける、んじゃないかなって、思った。」
「んー、なるほど。というか大分要約してるな。けどまあ、いいんじゃないか?俺はそう思うぞ。皆俺を頼ってくれるが、俺にはもうそんな権限はないし、幸瑶がそれでいいと思うならいいんだろう。ただ、向こうにはどう伝えるんだ?」
そう、幸瑶では相手に伝える手段はない。友人である祐喜に手伝ってもらうとしても、おそらく自分の立場が割れる。幸瑶はそれが怖かった。これを知ってしまえば、祐喜も他の人のように離れてしまうのではないかと、そんな風に思ってしまったのだ。
「……、その、悪いんだけど、慶一さんから、コンタクトをとってほしいんだ。ボクじゃちょっと、しにくいというか……。」
「あぁ、そんなことか。相手が日本語を話すってだけでもかなりやりやすいし、いいぞ。それに丁度大きい取り引きも終わったし。」
「つ、疲れてるんじゃないの?厳しいならボクがするよ。」
「最近何かしてないと落ち着かなくてさ、これから何をしようか迷っていたところなんだ。」
拍子抜けした。もっとこう、「だめだ、黒軍と馴れ合う気は無い」みたいに言われるのかと思った、と幸瑶は内心思っていた。複雑な話し合いをするのかと思えば、トントン拍子で話が進んでいっている。いつ何をどうするのか、お茶を飲みつつ詳しく紙に書き留め慶一に渡す。
「幸瑶、最近いいことでもあったか?」
「突然どうしたの。」
「いや、前より目が生きてるなと思って。」
以前の自分は一体どんな顔をしていたのだろう。死にそうな顔でもしていたのだろうか。
「前会ったときって、もう何年も前だよ。そりゃ、そんなに間空いてたら多少変わるって。」
苦笑いをしながら慶一の入れてくれたお茶を飲み干す。そうか、と彼は呟き嬉しそうな顔をした。食器を片付けつつ、時計を見ると4時前だ。5時には帰る、と伝えたからそろそろ帰らなければならない。
「あぁ、もう時間か。雨が降ってるから気をつけて帰るんだぞ。何かあったらメール送るから。」
「うん、忙しいのにありがとう。」
「気にすることないぞ。頼られるのは嬉しいもんだし。」
そう言ってにっと明るい笑顔を見せた慶一は、まるで本当の家族のようだった。きっとお兄さんがいたら、こんな風なのだろう。大きな扉を通り、廊下を共に歩きながら少しだけ話をする。朗らかに笑う慶一に見送られ、赤い傘をさして門を出た。しとしとと雨が傘を濡らす。帰ったらいつもの日常が待っている。数日間、不安定な天気が続くらしい。もしかしたら、暫く祐喜と会うことができないかもしれない。そう思う幸瑶の憂鬱な内面を表しているかのような空模様だった。
「あぁ、帰ってきたんだ。」
何事も無かったようで、と嫌味ったらしく言われるがいつもの事なので気にはとめない。因みに宣告した時間内に帰ってこないと「遅いから何かあったのかと思った。」とこれもまた嫌味っぽく言われる。この人は、総帥に心酔しており、幸瑶が総帥に好かれているからここまできたと思っているようだ。何処かへ出掛けると言うといつもこういう出迎えが幸瑶を迎える。
「で、今回はどんな事で媚を売ってきたんです?」
「……。媚なんて売ってない。」
「うっそぉ!」
今度はなんだ。誰が何の噂を広めてきたんだ?以前は金で云々、とかいうくだらない噂だった。そんなもので司令官になっていたら今頃黒軍に叩き潰されてるっての。一体いつになったらそれをわかるんだ。
「東雲総帥に体売ってたんじゃないの?」
「……は?」
「ま、そりゃないか。東雲総帥ならキミみたいな貧相なのを買うことしないだろうしね。あはは。」
拾われたとしても、仮にも、家族なのだ。そんな、そんな馬鹿なことを囁かれているのか。自分だけならまだ流せたものの、慶一が巻き込まれるのは許すことが出来ない。フツフツと怒りが湧いてくる。
「ふざけるな!さっさと出ていってくれ!」
あ。カッとなって怒鳴ってしまった。目の前の人間のヘラヘラとした顔からスッと表情が失われる。拳が振りかぶられるのを見てまずい、と思った瞬間衝撃が身体中に走る。流石に痛い。口の中に血の味が広がる。右側を切ってしまったようだ。
「っ、た……」
「さっきのは司令官が悪いんだよ。だめじゃん、ちゃんと身分を弁えないとさぁ……。」
痛いのは苦手だ。だから馬鹿みたいな言葉に何も返しはしない。力がないから、反撃も何も出来ないのが悔しく感じる。
「はぁ……。もういいよ、萎えた。帰る。」
冷めた目で幸瑶を一瞥し、扉を開け出ていく。数日間、雨でよかった。殴られた痕があっては祐喜を心配させてしまうかもしれない。会いたい気持ちを言い訳で隠して、幸瑶はまた白い部屋に閉じ篭った。
けたたましくサイレンが鳴る。襲撃のサイレンだ。白軍は揃って太陽の照る外へ出ていく。幸瑶はその流れに逆らってゆっくりと司令室へと向かった。手には白い箱を持って。他の場所とは打って変わって人通りの少ない廊下の窓から流れゆく隊員達を見ながら歩く。誰も幸瑶を見てはいない。羨望の眼差しも、歓声も何もなかった。幸瑶の提案は、向こうにも受け入れてもらうことができた。終戦の日は近い。ただ、その日を幸瑶が迎えることは難しそうだ。
どこまでも最低な神様だよ、木陰の下のような世界がどこにでもある日を、ボクが迎えたっていいじゃないか。まぁ、神様なんて信じちゃいないけど。
幸瑶は神に毒づきながら大きな扉を開ける。本やチェス盤が散乱した部屋のモニターに、戦場の様子が映し出されていた。赤が戦場に散る。一人、また一人と両者ともの人間が死んでいく様をただ眺めていた。戦闘の際につけているインカムも今日はつけていない。きっとこれが最後になるだろうから、誰にも邪魔をされたくないのだ。それに、今まで数年間幸瑶の指示を受けていたのだから、この状況くらい切り抜けることができるだろう。画面から目を外し床を見ると、白の騎士の駒が目に入った。そういえば、この騎士の主の王冠は欠けていた。不完全な王様の駒だった。
「騎士は、現れなかったね。」
王様を憐れに思いながら自嘲気味に呟く。白馬に乗った王子様やYes,my lordと言ってくれるような従者が現れることはもうない。最後に幸瑶の元へくるのは、愛しくて美しい死神だ。扉がゆっくりと開かれる。少し離れた位置に立つ彼は、僅かに泣きそうな顔をしていた。これからボクを殺すのに、もうそんな顔をしていて大丈夫なの?そう思いながら幸瑶はうっすらと微笑み客人を迎える。
「ようこそ、ボクの部屋へ。……自己紹介をしよう。白軍最高司令官、海梨幸瑶だよ。」
ちゃんと笑えているだろう。笑顔はどうやってしていたか、もう思い出したから。ポーカーフェイスには自信があるのだ。
「……幸、お前、司令官だったのか。」
「そうだよ。言ったでしょ、裏方の仕事だってさ。……せっかくだしいつも通り話でも、しようか。」
青い空も、大きな木も、穏やかな風も何もない空っぽな部屋だけど。それでも、話はできる。
「前にも言ったけど、ボクは拾われた人間だったんだ。……まあ、こんな見た目だからね。忌み子だって村から捨てられたんだよ。それから、白軍の一番の権力者である人物に拾われた。でも、拾われたものの人並みに動くことが出来なかった。とんだ役立たずってわけ。ただ、ボクは周りより少しだけ頭がよかった。それを生かして少しずつ上の立場に行ったよ。でもそれをよく思わない人間が多くいたんだ。」
祐喜は苦虫を噛み潰したような顔をした。自分もそれに当てはまるからだろう。その全てが幸瑶と出会ってきたような人間だ、というわけではないことはわかっていた。
「……名家のやつらか。」
「そ。戦場では役に立たない拾われた人間に上から司令されるのはプライドが許せないみたい。その人達からはよく思われてなかったし、名家の力は凄いからねぇ。変な噂とか流されたしボクの周りには人が全くいなかった。それに、ボクは極力を現さないように言われてたし。勝利の為にボクの頭脳だけは必要とされてて、戦歴を残していったからこんな地位に就いてるけどさ。居心地は悪いし、訓練じゃ邪魔者扱いだし、何処かゆったりできるところに行きたかったんだ。ちょっと遠くまで歩いて見つけたのがあの小さい丘だった。祐喜くんと会ったときは近くに黒軍がいるってびっくりしたけど、会って話すうちにいい人だって分かっていったし、ボクに初めて友人ができたんだ。特に位もないただの一般人みたいな雰囲気だしてキミを騙すのは少し気が引けたけどね。」
罪悪感はいつもついてまわっていた。本当に一般人ならば、こんな結末にはならなかった。けれど、最高司令官としての海梨幸瑶でなければ、今戦争を終結させることはできなかっただろう。
「もう1人のボクとも会ったでしょ。彼は口下手だから、何言ってるかわかんなかったかもしれないけど。ボクを支えてくれてた大事な家族だよ。あと……、ああ、そうだ、戦争の終結を先日に提案したんだ。最高司令官の権限で拾ってくれた人、総帥ともきちんと話して。お互いのいいところを尊重しあってこれからやってくべきだってね。もう話し合いは最後までいったし多分締結されたし、そっちにも伝わったと思うんだけど。」
「そう、なのか。」
「うん。前々からそう思ってたんだけど、祐喜くんと話してからやっぱりそう確信したんだ。向こうにも同じようなことを考えてる偉い人がいて助かったよ。でもこれはほぼ独断で決めたものなんだよね、これからどうなるのかなぁ。まあ、総帥が言えばなんとでもなっちゃうんだけどさ。……話が長すぎたね。椅子を用意してお茶でもいれるべきだったのかな?前みたいにお菓子でも出せばよかったかな。」
お菓子がなければ慶一のところのように立派なお茶っ葉もない。幸瑶のすぐ近くには、幸瑶に対して何かを教えてくれたりするような人間が誰一人として存在していなかったから。少しして祐喜は、ふと疑問を幸瑶に投げかけた。
「……なんで俺達は今も白軍と戦ってるんだ。戦争が終わるなんて一言もきいてないぞ。」
「ん~、隊によって性格が違うからなぁ。祐喜くんの隊はきっと白軍を屈服させる、そこまでしてから戦争が終わったって宣言するタイプなんじゃない?うちの軍にもそういうのいるからなぁ。全然話聞いてくれないの。」
いつも通りの口調で話をする。この部屋だけ、世界と切り離されたかのような錯覚をうける。以前見た、険呑な雰囲気が顔を覗かせる。そんな手を握りしめてたら、傷ができてしまうじゃないか。今度は欠伸ではなく、別のことでその空気を変えることにしたのだ。
「ね、プレゼントを受け取ってくれるかな。」
「ぷれ、ぜんと……?」
「贈り物だよ。ボクがこの地位に就いたとき、最後まで一緒に隣で支えてくれるような、そんな人ができたら渡しなさいって、言われたものを最愛の友人に渡そうと思って。」
昔、信頼できる人に渡すものを選んでおいたらいいと言われ、慶一と見に行ったのだ。腕時計を渡すことには離れていてもいつも一緒の時間を刻みたいって意味があるからな、と優しく笑いながら言われ、これにしようと決めた、雪のように真っ白な、けれども暖かい色をしている純白の腕時計。今まで箱の中に入って机の奥底で眠っていたこれを誰かに渡す日がくるなんて思ってもみなかった。ただ、黒に身を包む祐喜に似合うかはわからない。それに、受け取ってもらえるかすらわからない。受け取ってもらえなかったら死ぬかもしれない。まあ、どちらにせよ結末は一緒だけど。純白の腕時計と祐喜を交互に見て、幸瑶は苦笑いを幼い顔に浮かべた。
「白いからその格好にはあわないかもしれないけど……。でも戦争が終わればその服も必要なくなるから、大丈夫だと思う、だから」
「もらう。」
返事は言葉を遮って返ってきた。祐喜は左目を隠していた眼帯を外し、素顔を晒す。眼帯の下の瞳はあまりにも綺麗で、透き通っていた。まるで、空に揺蕩う輝く月のようだ。見とれている幸瑶に祐喜は腕を差し出し、目の前に立つ友人を真っ直ぐ見て言葉を続ける。
「主従関係なら、多分、今跪くのが正しい。けど、俺とお前はそういう関係じゃないから。……何も隠さず、対等でいたい。」
幸がつけて、と祐喜は言う。あぁ、この優しい人は自分を司令官としてじゃなく、友人として見てくれているのか。目の前がぼやける。鼻がつんとする。泣くな。今そんな顔は見せられない。潤む瞳を袖で拭い笑顔でわかった、と返す。嬉しい時は、笑うのだ。
「祐喜くん、綺麗な目してるよ。隠してるのが勿体ないくらい。」
空みたいだ、と思ったことを素直に口にすれば、祐喜は、なんだそれ、と照れたように言い、笑った。その表情、初めて見たな。綺麗な顔、程よく筋肉のついた腕、白い手首とすうっと視線を移しながら、白い手首に純白のベルトを巻いていく。自分とは全く違う逞しい体に、今まで鍛え戦ってきたであろう姿が簡単に浮かんだ。金色に輝く金具を止め、腕時計を付け終える。案外、似合ってるんじゃないだろうか。そう思いながら幸瑶は少しだけ我が儘を言った。
「ね、この眼帯もらってもいい?」
祐喜くんの持っていたものと一緒なら良い夢が永く見れそうじゃないか、とは口に出さず心にしまい幸瑶は言葉を紡ぐ。
「いいけど、なんで。」
「最後だからだよ。」
その言葉に祐喜はハッとしたような顔になった。そう、彼らは、最高位に立つ幸瑶を殺すために乗り込んできたのだ。交渉のため黒軍に送った手紙は、東雲慶一という名前は書かず海梨幸瑶名義で出してもらった。もしこうなったとしても、恩人に危害が与えられないように。欠けたものは欠陥品として捨てられるかもしれないが、何も欠けていない完全な王が捨てられることは無い。
総帥は、慶一さんは、これからの日本を支えていく立派な人間でもあるのだから、死んではいけない。死ぬのは、路傍の石のようだった欠陥品の王様だ。
「祐喜くん達はボクを殺しにきたんだよね。ほら、いつでも大丈夫だよ。ボクごときが死んで戦争が本当に終わるならいくらでも身を差し出すよ。」
あぁ、でも殺されるなら祐喜くんがいいなぁと呟き、幸瑶はまるでハグを求めるように腕をあげる。
「ほら、はやく。なんで泣きそうな顔してるの。普段みたいに殺していいんだよ。」
苦しそうな顔をしてその場に立ち竦む祐喜の元へ幸瑶自ら歩いて近づき、そのまま祐喜の背中へ手を回して抱きつく。久々の人の体温。祐喜くんはあたたかいんだな、と幸瑶はぼんやりと思った。「殺して」と囁くと、祐喜の体が少し強張ったことを感じる。二人を遮るものは何も無かった。
「ボクの役割はもう終わった。」
そう呟いて、死を待つ。まだ、生きていたかった。死が怖くなったわけじゃない。ただ、もう少しだけ、たった一人の友人と話がしたかったのだ。いや、少しだけじゃ足りない、もっと、話すだけじゃなくて何処かへ、そう、いつもケーキを買っていたお店行ったりだとか、慶一へ会わせてみたりだとか、そんなこともしたかった。祐喜がよければ、彼の友人とも話がしてみたかった。死ぬ間際にこんなこと思うなんてボクってちゃんと人間だったんだなぁ、と幸瑶は思った。目の前の優しい救世主は、言えばきっと殺さずにいてくれるのだろう。背中に祐喜のもつ小さなナイフの刃が当てられるのを感じる。少し震えている刃が幸瑶に罪悪感を募らせた。ぎゅ、と背中に回していた手に力を入れると、ナイフを持っていない手がゆっくりと背中にまわり幸瑶を強く抱きしめた。ほんのちょっとだけ、痛い。けれど、今まで何をしようと痛くしないよう力加減をしてくれていた彼が、それを忘れるくらい強く決して離さないよう抱きしめてくれることが嬉しく、本当に愛しかった。
「幸、本当にいいのか。」
ほら、ちゃんと、いいのかきいてくれる。こんな優しい人に、最後に殺す人間が友人になってしまう重荷を背負わせてしまうのは、とても申し訳ないと思う。それでも、祐喜に殺して欲しかったのだ。唯一の友人で、我儘を言える大切な人に最期まで共にいてほしかったのだ。
「うん、いいよ。……最後に本当の名前よんでほしいな。」
「……幸瑶、ごめん。」
「ふふふ、祐喜くんは優しいね。ありがとう、次があるなら、もっといい世界で会いたいな。バッドエンドはもう、こりごりだ。」
さよなら、と呟いた彼の顔はまるで穏やかに眠る天使のようで、その頬には一筋の涙が流れていた。
ジリジリと赤い陽が肌を焼くのを感じる。夕方とはいえ暑い、親戚の家に遊びに行ってそのまま真っ直ぐ帰るべきだったろうか。可愛い顔が描かれた白いTシャツの襟を掴みぱたぱたと扇ぐ。そんなに涼しくない。
でも突然ケーキ食べたくなっちゃったんだもんね、と誰に言うわけでもない言葉を並べ、お気に入りのケーキ屋へ向かう道を歩く。父さんと、母さんと、弟にケーキを買って帰ろう。何のケーキにしようかな。
「ッ、あの!」
突然力強く腕を掴まれた。ちょっと痛い。一体誰だろう。そう思い、掴まれた方を見るとやけに顔の整った青年が、少し焦ったような顔をしてこっちを見ていた。こんなカッコイイ知り合い、いないはずなんだけどな。
「……?誰ですか?」
そう、いないはず。けれど、確かにこの人を見たことがある……?
「えっ……と、俺、……、……いや、人違いだった。すみません。」
言葉切れ悪く話す彼をじっと見つめる。やけに熱く感じる彼の手が、名残惜しそうに離れた。熱が腕に残っている。ボクは、この温度をどこかで知っている。
「……ねぇ、ボクと会ったことある?」
視線を逸らして謝り去っていこうとする彼を引き止めこちらから声をかけた。やけに胸騒ぎがするのだ。ボクは何かとても大切なことを、忘れてしまっているような、そんな気がして。
「昔、丘の上で。」
あぁ、だめだ、思い出せない。目の前の彼の眉が垂れ下がるのを見て、少し申し訳なく感じる。
「これから、ケーキを食べに行くところだったんだ。」
「あ……、引き止めてごめん……。」
「そのお詫びにさ、キミも一緒に来てよ。そこで、昔の話をきかせて。」
苺のケーキでも奢るからさ、と言うと、彼の顔がふっと明るくなり安心した。なんとなく彼は苺のケーキが好きそうな気がしたのだ。
「ね、キミの名前を教えて。」
逆光で彼の表情がよくわからない。なんて邪魔な太陽だと一瞬感じたけれど、光で透ける彼の薄く赤が色づいた髪が煌めいて、少し光る月と空のようなオッドアイが、精緻な美術品のようで、あまりにも綺麗で息をのんだ。
「軸野、祐喜。」
アンタは、と震える声で名前を問われた。なんで、そんな泣きそうな声をしているんだ。なんだかこっちまで泣きたくなってくるじゃないか。
「海梨幸瑶。よろしくね、祐喜くん。」
「……うん、また、よろしく。」
目尻を下げふっと目を細めて笑った祐喜の表情に胸が締め付けられる。彼の、こんな表情は知らない。言い様のない苦しさを押し殺し、昔の話を聴く為に祐喜の手をとる。きっと、この苦しさも、泣いてしまいそうな彼も、ボクも、話を聴けば理由が全部わかるような気がするんだ。
「そっ、か、そうだよね。また、だね。ふふ、じゃあ、ケーキ屋行こ!美味しいんだよ〜。」
「そうだな、俺も、苺のケーキ食べたいし。」
「あ、やっぱり好きなんだ。可愛いね。」
「好きっていうより食べやすいだけだから。」
二人はいつかのように言葉を交わしながら、世界を赤く照らす夕暮れ時に、共に同じ方向へと歩き雑踏に紛れていった。