Sekai In Futon
私が彼に最初に出会ったのは、中学の教室です。真新しい、サラサラとした空気で、窓の外では緑や桜が私たちを祝っていました。見知らぬ人達と仲良く出来るのか、ふわりと浮いた雰囲気の中、彼だけ1人席に座って泥沼のように沈んでいたのです。いえ、そう感じただけですよ。彼は顔に湿布を貼ってずぅっと俯いていました。まるで何かに責め立てられているような風でした。私の彼の印象は『暗い子供』でしたよ。きっと周りの子供もそういう印象を持っていたのではないでしょうか。スルスルと月日が流れて、三者面談がやってきました。一体、私達教師としてもどんな親がくるのかと、緊張するところです。彼は至って普通に見える父と面談に来ました。誠実で、奥様を大切にしていそうな父親でした。彼は成績も特に非がある所はなく、滞りなく話は進んでいったのです。ただ、私が質問はないか、と問うと、彼の父は、「何も変なところはないか」と答えるのです。私は「はい。特にありませんよ。」と微笑んで返しました。それは嘘でした。彼は苛められていました。虐げられていました。薄気味悪い、と陰で言われていました。なんせ、いつも顔にはガーゼと湿布を貼っていて、長い前髪をたらして下を向いているのです。なにか問いかけても薄い反応が返ってくるだけ。それに、彼は昔母親を殺されていたのです。それは完全に偶然の事件でした。異端となり、周りから格好の餌食となった彼は、いつも何の抵抗もせず、犯罪行為を受け入れていたのです。私は虐められていることを知っていました。しかし、これが教育委員会に取り沙汰にされ、これからの人生が狂ってしまうのが非常に恐ろしく思えたのです。私は隠しました。ずぅっと見て見ぬフリをしました。
彼の机に花の入った花瓶が置かれるようになった頃、彼は死んでしまいました。それは、長い長い夏休みを終えた直後でした。まだ蝉が鳴く暑い日のことです。彼の父は、殺されてしまいました。無惨にも、母と同じような状態で遺体が発見されたのです。しかし、彼が見当たりません。親戚は捜索願を出すのかと思いきや、何もしませんでした。こんな不気味な一家と関わってられるか、と。見つかれば誰かが引き取らねばなりません。それも、父と母が殺されてしまった子供を。彼は、死亡した、とそういう風に扱われました。私は担任ということもあり、葬儀に参列しました。もちろん、彼を虐めていた生徒達もです。前方には見るも無惨な父親の遺体が入った棺桶と、空っぽの棺桶が並んでいました。葬儀は、異様な空気でした。本当に悲しんでいた人など、ほんの数人でしょう。私は気分が悪くなりました。ガンガンと、嫌に蝉の鳴き声が頭に響く、座っているだけで汗が垂れるほど暑い日だったと思います。
そして、ある日、彼を見かけたのです。教え子達と、久しぶりに会っている時でした。それも、彼が死んだ時の教え子達と。ふっと、前を見ると彼に酷似した青年が街を歩いています。まさか、と私は思いました。青年の隣には、物腰の柔らかそうな、背の高い青年がおりました。2人はいかにも幸福そうで、いつか彼にみた泥沼などは感じられませんでした。暫くすると彼は、私に気づいたのです。ドキリと、胸が弾みました。彼は笑ったのです。それも、とびきり艶めかしく。それは、劣情によるものなのか、それとも、なにか後ろめたいことを指摘された居心地の悪い気持ちからなのか、全く分かりません。ただ私は酷く安心したのです。「あぁ、彼は生きて、私達を許しているんだ。」と。周りにいる教え子達も、最初は気づかなかったようですが、だんだんと誰かわかってきたようでした。なんせ、彼はよく目立って、クラスの中心にいましたから。「アイツ、死んだんじゃなかったのか。」どこからともなくそんな声が聞こえます。彼は連れに一言断りをいれ、こちらに向かってきました。顔にはガーゼも湿布もなく、昔感じた暗い雰囲気など一欠片もありませんでした。彼は私に近寄ると、「お久しぶりです、お元気でしたか?」と小鳥が囀るがごとく、とんとんとした調子で訊ねてきました。そこから一言、二言交わし、彼は少し離れて待っている青年に目をやり「そろそろ時間なので……」と微笑したのです。そして、周りを見渡すと、彼を虐めていた主犯の青年に、「貴方達を夢にまで見てきました」とふわりと笑って言い放ち、青年の元へと返っていきました。彼は私達を許してなどいなかったのです。2人は幸せそうに、笑顔を見せて談笑をしながら雑踏にまぎれいなくなりました。私達に向けた笑顔は女神のように神々しく、慈愛を与えるものではありませんでした。むしろ、悪魔のように深淵へ引きずり込むものだったのです。彼が言外に「許さない」と伝えていたのをここで初めて実感したのです。彼の姿は今でも私を苛みます。きっとそれが彼を見捨てた私への罰なのです。私はきっと一生彼の呪いにかけられながら、生きていくのです。